神凪恭一の無駄かもしれないけれど理解する努力をしてみる ~感情自己責任論編~
先日Twitterで、とある方とやり取りをしました。盛んに感情自己責任論なるものを取り上げて。「これを見れば見識が広がる!」「熟読すれば私の言いたいことはすべてそこにある!」とのことだったので、熟読させていただきましたよ。ええ、熟読しましたとも。
この先は長くなります。読まれる方は覚悟をお願いいたします。関わった以上は全力で。これ私のもっとうです。
ちなみに相手方に対して私は何の感情も抱いていません。別にただなんとなくこの人のいっていることは無責任だな~と思って呟いただけです。実際やり取りをしていても、特段好悪の感情すら出てきませんでした。
まずのっけから普通に読むとどういうことなのか理解するのが面倒な文章が並んでいます。要約すると
「情報の発信源には感情を動かす一切の原因がなく、情報の受け手にのみ原因がある」
というようなことが書かれています。
ふむ、もっともらしく書いてありますが。まずここからしておかしい。これは本来両者に原因があって一方に原因があるのではないというのが正しいように私は考えます。
理由は
感情とはヒトなどの動物がものごとやヒトなどに対して抱く気持ちのこと。喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などがある(感情の一覧)
Wikipediaから引用
であるからです。
ここで注目すべきところは、感情がひとや動物・物事に対して抱く気持ち。つまり外的要因がなければ生まれないものということです。感情とは自己だけで完結するものではなく、相手が会って初めて成り立つものです。これが私が両方に原因があると考える理由です。
更に読み進めていきましょう。次にはこういった内容のことが書かれています。
「ある文章を読んだ結果、何らかの感情を得た場合、その感情は自らの内側にあるモノであるから、書き手にはなんら原因はない。感情は受けて側の固定観念が原因であり、そういった感情で人を批判してはいけない」
ということが書いてあります。
まずは固定観念の定義を明確にしておきましょう。
固定観念(こていかんねん)は、固着観念(こちゃくかんねん)とも云い、心理学の用語で、人が何かの考え・観念を持つとき、その考えが明らかに過ちであるか、おかしい場合で、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、当人がその考えを訂正することのないような観念を指す
Weblio辞書より引用
つまり、どんな人も明らかにおかしな考え方をしている。ということが前提にあるというお話ですね。すごいです。最近同じようなことをどこかで見たことがあると思ったらこれですね。
「○○党は民衆の味方! それを支持しないなんて民衆じゃない! □□党は国民の敵(与党に投票したのは民衆じゃない)!」
すごい理屈だと思いませんか? この文章を書いた人の固定観念が窺えます。
ではさくさくと次に逝ってみましょう(誤字に非ず)。
この後は長々と色々書いていらっしゃいますが、おしゃられていることは同じ。
「ある文章を読んだ結果、何らかの感情を得た場合、その感情は自らの内側にあるモノであるから、書き手にはなんら原因はない。感情は受けて側の固定観念が原因であり、そういった感情で人を批判してはいけない」
であります。大事なことなので二回目です。
で、この文章対論形式で書かれているのですがと各色々とかかれすぎていて分かり辛い。言っていることは上記で間違いないのですが、「一部例外はある」とか書いたりして、保険をかけているわけです。自説の前フリ(この段階はまだ前フリだそうです。そう書いてあります)でこの体たらくですが大丈夫でしょうか?
細かいところを上げていればキリがないので、次に逝きましょう。
ここからはおそらく論者本人が一番言いたいことが書いてあるはずのタイトルがずばり「感情自己責任論」となるわけです。
では見ていきましょう。
喜怒哀楽や煩悩・不平不満等の感情の原因は100%それを感じる人の持つ固定観念にある。観念に強く執着すればそれだけ湧いてくる感情も強くなる
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
固定観念と観念という言葉が出てきます。先ほど固定観念については引用を用いて説明させていただきましたが、今度は観念という言葉を説明させていただきます。
かん ねん くわん- [1] 【観念】
固定観念とは、個々人が持つ固着観念、既成概念、主観、評価基準、先入観、世界観、見識、信条、思想、哲学、イデオロギー、主義主張、教義(ドグマ)、掟、美学、パラダイム、思考パターン、思考様式、思い込み、自己スキーマ、予断、バイアス、偏見、迷信、レッテル貼り、思考癖、命題、格言、教訓、方針、希望、期待など、無意識的にせよその人が「これは正しい」「かくあるべし」等と認めている価値観、定義付けのこと解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
笑いや感動や驚愕、動植物の意思(縄張り意識や生存本能)も観念に依って起こる。但し、摂食や性交等による肉体的快楽や脊髄反射等については、直接観念が作用しないので論外解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
如何なる事象も最初から意味のあるものはない。ただ「起きている」だけ。見た人が各自の視点・観点から定義を与えて初めて、意味や価値が生じる。種々の形態の情報も、元を辿ればただの光の濃淡や空気振動等に過ぎない解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
マナーや礼儀は「感情に自己責任が取れず、判断に迷う者に基準を与え、無用な争いを避ける為」に存在する。だから精神的に自律していない弱輩者ほど、周囲にルールを要求する。法律とは、その時代の多数派の都合のいいように決まるもの詐欺の場合、騙そうとする側が積極的に誤解させようと(恐怖心を煽る/虚偽を示す等)するので、マインドコントロールを受けた側が「相手の言いなりにならずに自由意思で判断する」ことはあり得ない(あったら「騙された」と思わない)
従って積極的に誤解させようとした側に、騙した(誤解させた)原因と責任がある。詐欺でも痴漢でも虐めでも、行為の原因は常に行為者にある、ということ
恐喝の場合、恐怖により自由意思が制限されるので、被害者に金を払った原因も制限される
なお「どんな行為を受けたら自由意思が制限されたと感じるか」は、100%被害者側が決めること
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
読者が触れ得た情報をどう読み取ってどう活用するかは、完全にその読者の勝手自由。例えそれが誰かに教わった考え方・見解であっても、読み手が他者に「強要」されることなく自由意思でそれを選んでいれば、その結果に対する責任は読み手自身にある
例えば貴方がある情報に接してどれほど憤りを覚えたとしても、それはあくまでも貴方の判断基準・尺度に照らして貴方自身が無意識的にせよ選んだ解釈の結果であって、その情報の発信者には「貴方の憤りに対する原因・責任」は全くない
ここで言う「強要」とは肉体に対して直接的物理的な実害が及ぶケースのみであり、暴言や誹謗中傷についても、騒音となるもの以外「強要」に当たらない。例えそれが脅迫文でも、恐怖心を抱く事自体は読み手の勝手な所為、自業自得ということ
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
つまり人は本来(ネットやTV鑑賞等に於いては絶対に)自分の感情を他人のせいにはできない。怒りの矛先を少なくとも自分以外の誰かに向けるのは、筋も間も勘も気も思いも場も見当も御門も違う。これに気付いていない人同士が互いに鏡となって矛盾を見せ合う行為・現象が「争い」である
従って貴方が誰かに嫌悪感を抱いても、その原因は常に「貴方の持つ固定観念・定義付け」であって「相手」ではない。逆に誰かが貴方に嫌悪感を抱いても、全く一切何ら断じて金輪際ちっとも全然まるっきし貴方のせいではない。「生意気だから」「ムカツクから」等といういじめやその報復の口実も、全く言い訳にならない
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
そもそも何を見てどんな印象を抱きどう感じるかは個人の自由。もし貴方がその自由に制限を与えようと(例えば相手に自分の理想を押しつけようと)すれば、その瞬間に貴方も不自由(苛立ちなど)を感じる羽目になる(人を裁けば自らが裁かれる)
これが「貴方が与えたものを貴方が受け取る」という、この宇宙の仕組み(仏教で言う因果応報、物理学で言う作用反作用)
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
逆に言えば、仮に貴方が意図せずに誰かを怒らせたり悲しませても、相手が自前の了見・価値基準で勝手に感じている事なので、貴方が後悔や自責の念を感じる必要は一切ない
相手が幾ら貴方に罪悪感や劣等感を感じるよう仕向けたとしても上述のように御門違いなので、何ら貴方が自己嫌悪に苛まれるべき理由にならない(これは無論、迷惑を掛けたり失敗しても反省や訂正や改善をしなくて良いという事ではない)
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
無論、感情自己責任とはいえそれを表現すべきではないという事では決してない。感情は自己表現の一つであり自他共に己を知らしむチャンスなので、寧ろ積極的に感じたままを間を置かずに表現すべき
実際、感情を抑圧する者ほどそれを爆発させやすく、感情の自己責任が取れていない者ほど他者の表現の自由を制限したがる(自分が傷付かなくて済むように)
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
自称知識人の多くは自覚がないが、「何かを批判・非難する」ということはその対象に関して中途半端な知識しか持っていない証拠(無知の無知)。これが、批判・非難が一時的表面的解決にしかならず、実態は益々隠蔽され問題が長期化する所以解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
感情に限らず人生で体験する全て(外界)は「体験者がどんな固定観念を持っているか(内界)」を映し出す“鏡”に過ぎない。従って感情的な批判や非難は全て自己矛盾する
例えば、極悪非道な犯罪者に対して「あんな思いやりのない人間がいるなんて信じられない」などと責め立てる人ほど、その罪人の立場を思いやれていないように
何かと差別問題化したがる偽善者の心の中にこそ根深い差別心があるのも同様。内部に矛盾がなければ外部に矛盾を見る事はできない
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
人は100%、当人が与えた定義付け通りを体験する。「人生は必ずしも思い通りにならない」と定義していれば、正にその通りの(必ずしも思い通りにならない)体験をする
従って、繰り返したくない体験に出会ったら「どんな固定観念がこの体験を見せているのか」「その固定観念は執着に値するのか」と考えてみると良い。原因となっている観念を変えれば、似たような体験をしなくなる(変えなければ似たような体験を繰り返す)
「体験が先で観念が後、という観念」も含めて、常に「観念が先で体験が後」。常に本人の現時点の固定観念が、過去や環境を定義している
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
個々人のみならず集団・社会においても観念は具現化する。グループ全体が抱いている観念はそのグループ内で起こる出来事となって現れる。例えば貧困は人々の中にある「飢餓への恐怖」、犯罪は「自己存在の喪失に対する恐怖」が顕在化したもの解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
全ては必然であり、起こるべくして起こっている。偶然や奇跡、運不運、矛盾、不合理、理不尽、不条理などは、その現象・物事の因果や必然性を理解(説明)できない人が言い訳として用いる概念に過ぎない
同じように「闇」も存在しない。存在するのは「知覚能力の限界」。同様に「客観」も存在しない。存在するのは「共有された主観」
真実は「人の数だけ」ある。「真実は一つ」は、数ある真実の中の一つに過ぎない。だからいつの世も「唯一の真実」に拘る人だけが、争いを通して己の矛盾を体験する
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
以上は、どこかの馬の骨が短い生涯の間に知り得た狭い視野から捻り出した独断と偏見の賜物、即ち単なる個人的主観。真か否かを判断するのは貴方自身であり、いずれにせよ貴方は貴方が信じた通りを体験する解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
「感情自己責任論は矛盾している・間違っている」「読むとイライラする」
⇒往々にしてそれは「主張者の解釈した感情自己責任論」であって、上記されている「感情自己責任論」ではない。何であれ矛盾して見えるのはそれを主張する者が十分に対象を理解していないことが原因。イライラするのは今はまだ読む時期ではないということ。時間を置いて精神的に成熟してから読めば良い
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋
「いやいや、それだけでは情報の受け手は自分の価値観のどこをどう見直したら良いのか分からないではないか」
それは各人が体験を通して自分で見付けるべきことで、その為の「体験(感情)」
切磋琢磨しない者はいつまで経っても成長しない。結果、死ぬまで同じ事に怒り続ける
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋