神凪恭一の無駄かもしれないけれど理解する努力をしてみる ~感情自己責任論編~

 先日Twitterで、とある方とやり取りをしました。盛んに感情自己責任論なるものを取り上げて。「これを見れば見識が広がる!」「熟読すれば私の言いたいことはすべてそこにある!」とのことだったので、熟読させていただきましたよ。ええ、熟読しましたとも。

 この先は長くなります。読まれる方は覚悟をお願いいたします。関わった以上は全力で。これ私のもっとうです。

 ちなみに相手方に対して私は何の感情も抱いていません。別にただなんとなくこの人のいっていることは無責任だな~と思って呟いただけです。実際やり取りをしていても、特段好悪の感情すら出てきませんでした。

 

 まずのっけから普通に読むとどういうことなのか理解するのが面倒な文章が並んでいます。要約すると

「情報の発信源には感情を動かす一切の原因がなく、情報の受け手にのみ原因がある」

というようなことが書かれています。

 ふむ、もっともらしく書いてありますが。まずここからしておかしい。これは本来両者に原因があって一方に原因があるのではないというのが正しいように私は考えます。

理由は

 

感情とはヒトなどの動物がものごとやヒトなどに対して抱く気持ちのこと。喜び悲しみ怒り諦め驚き嫌悪恐怖などがある(感情の一覧

Wikipediaから引用

 

であるからです。

 ここで注目すべきところは、感情がひとや動物・物事に対して抱く気持ち。つまり外的要因がなければ生まれないものということです。感情とは自己だけで完結するものではなく、相手が会って初めて成り立つものです。これが私が両方に原因があると考える理由です。

 

 更に読み進めていきましょう。次にはこういった内容のことが書かれています。

「ある文章を読んだ結果、何らかの感情を得た場合、その感情は自らの内側にあるモノであるから、書き手にはなんら原因はない。感情は受けて側の固定観念が原因であり、そういった感情で人を批判してはいけない」

ということが書いてあります。

 まずは固定観念の定義を明確にしておきましょう。

 

固定観念(こていかんねん)は、固着観念(こちゃくかんねん)とも云い、心理学の用語で、が何かの考え観念を持つとき、その考えが明らかに過ちであるか、おかしい場合で、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、当人がその考えを訂正することのないような観念を指す

Weblio辞書より引用

 

 つまり、どんな人も明らかにおかしな考え方をしている。ということが前提にあるというお話ですね。すごいです。最近同じようなことをどこかで見たことがあると思ったらこれですね。

 「○○党は民衆の味方! それを支持しないなんて民衆じゃない! □□党は国民の敵(与党に投票したのは民衆じゃない)!」

 すごい理屈だと思いませんか? この文章を書いた人の固定観念が窺えます。

 

 ではさくさくと次に逝ってみましょう(誤字に非ず)。

 この後は長々と色々書いていらっしゃいますが、おしゃられていることは同じ。

「ある文章を読んだ結果、何らかの感情を得た場合、その感情は自らの内側にあるモノであるから、書き手にはなんら原因はない。感情は受けて側の固定観念が原因であり、そういった感情で人を批判してはいけない」

であります。大事なことなので二回目です。

 

 で、この文章対論形式で書かれているのですがと各色々とかかれすぎていて分かり辛い。言っていることは上記で間違いないのですが、「一部例外はある」とか書いたりして、保険をかけているわけです。自説の前フリ(この段階はまだ前フリだそうです。そう書いてあります)でこの体たらくですが大丈夫でしょうか?

 細かいところを上げていればキリがないので、次に逝きましょう。

 ここからはおそらく論者本人が一番言いたいことが書いてあるはずのタイトルがずばり「感情自己責任論」となるわけです。

 では見ていきましょう。

喜怒哀楽や煩悩・不平不満等の感情の原因は100%それを感じる人の持つ固定観念にある。観念に強く執着すればそれだけ湧いてくる感情も強くなる

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋 

 

 固定観念と観念という言葉が出てきます。先ほど固定観念については引用を用いて説明させていただきましたが、今度は観念という言葉を説明させていただきます。

 

かん ねん くわん- [1] 【観念】

物事について抱く考え意識。 「彼とは義務の-が違っている」 「経済-に欠ける」 「時間の-がない」 「固定-」
あきらめること。覚悟すること。 「もうだめだと-した」
〘仏〙 仏教瞑想法の一。精神集中し,仏や浄土の姿,仏教真理などを心に思い描き,思念すること。 「一心に極楽を-するに他の思ひ出来れば今昔 15」 〔 (1) 「華厳経」で④ の意で用いられた語。その後西周にしあまねが「生性発蘊」(1873年)で英語 idea やフランス語 idée の訳語とした。 (2) 類義の語に「概念」があるが,「概念」は同一性質を持つ事物に共通する,言葉で表された意味内容の意を表す。それに対して「観念」はある物事意識したり思考したりしたときの,主観的意識内容を表す〕

Weblio辞書より引用

 ここでいう観念とは①の意味のことですね。
 先ほど述べた通り、私は原因が片方だけにあるとする一方的な考え方を支持しないので、この意見にまず反対なのですが、それ以前によく読んで見るとおかしなところに気がつかないでしょうか?
 喜怒哀楽や煩悩・不平不満等の感情という部分に何か違和感を覚えないでしょうか?
 

不平不満

読み方:ふへいふまん

不平と不満のこと、文句愚痴などのこと、などを意味する表現。「不平不満が多い」などという具合に使う。
Weblio辞書より引用
 
 つまり、感情という精神活動と不平不満を表に出すという現実的行動が一緒くたになっています。この時点で精神活動に対するものなのか、現実的行動に対するものなのかが曖昧になっています。
 では次の文章に逝って見ましょう。だんだん疲れてきました。理解できない文章を解説することがここまで苦痛だったとは。この歳になって始めての経験です。
 
固定観念とは、個々人が持つ固着観念、既成概念、主観、評価基準、先入観、世界観、見識、信条、思想、哲学、イデオロギー、主義主張、教義(ドグマ)、掟、美学、パラダイム、思考パターン、思考様式、思い込み、自己スキーマ、予断、バイアス、偏見、迷信、レッテル貼り、思考癖、命題、格言、教訓、方針、希望、期待など、無意識的にせよその人が「これは正しい」「かくあるべし」等と認めている価値観、定義付けのこと
 
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋 
 
 さて、先ほど私は固定観念の意味を引用させていただきました。それとこの文章を比較していただきたい。まずはこの難解な文章を平易な文章に置き換えましょう。
 つまりは
「人間の思考はすべて固定観念である」となるわけです。
 一応突っ込みを入れると。固定観念と固着観念は同じ意味の言葉です。言い換えに過ぎません。ここに出てくる言葉は割と難しめの単語だと思います。私は大学とかいっていないので難しい哲学用語は分かりかねますし、横文字は特に苦手です。
 ですが、一応自分で決めたことなので調べた結果。ここに表示されているものすべてを加味したら人間の思考における指標はなくなってしまうという結論に達しました。
 というか、唯一つだけこれだけはなくしてはいけないだろう物が入っているのでそれだけでもう論外と言わざるをえません。主観なくして人間はどんな判断を下せましょうか。客観だけで生きるということはつまりは感情を排するということだと認識します。
 ですが彼とのやり取りの中では「そんなことは書いていない」としきりに仰っていました。たしかに書いてはいませんね。そういった意味に取れる理論展開であるというだけです。
 
 では次に逝きましょう。頭が痛くなってきました。
笑いや感動や驚愕、動植物の意思(縄張り意識や生存本能)も観念に依って起こる。但し、摂食や性交等による肉体的快楽や脊髄反射等については、直接観念が作用しないので論外
 
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋 
 更なる思考の負荷を要求され、私の脳はオーバーヒート寸前です。私は決して頭のいいほうではありません。謙遜ではなく事実として学校の成績は下の中ぐらいでしたし、大学にもいっていません。
 私の出来損ないの脳細胞でこの文章を理解しようとすると
「正の感情と動植物の意志も観念によって起こる。が性交による快楽や、摂食による幸福感などは観念によらないので適用の外とする」
となります。
 頭痛が更にひどくなってきました。
 おそらくここで述べられている観念は固定観念と道義と考えていいと思うのですが、性交、摂食が観念によらないという理屈はどこから出てきたんでしょうか。この文章より前に性交や摂食に関する例外的な扱いやそれを証明する指標はありません。しかも動植物の意志(縄張り意識や生存本能)が観念によって起こる。これも証明不能であります。人間には動植物と意思疎通ができない以上、それらが観念を元に想起されるかどうかのサンプルが収集できませんし、できたとしてもその観念を人間が理解できるとは思えません。
 
 更に次に逝って見ましょう。もう奈落の底まで落ちてしまいましょう。
如何なる事象も最初から意味のあるものはない。ただ「起きている」だけ。見た人が各自の視点・観点から定義を与えて初めて、意味や価値が生じる。種々の形態の情報も、元を辿ればただの光の濃淡や空気振動等に過ぎない
 
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋 
 では解説を。といってもここはそう難しくないように感じます。「自分が受ける外的刺激は所詮物理現象であって、そこになんら意志は介在せず。そこに意志を見出すのはそれを受け取る個人だ」ということでしょう。
 ここで論点のすり替えが起きています。
 今までは対象が人間対人間であったのに、ここに来て突然、人間の行動はすべて物理現象だから意志なんてないという暴論を展開します。もちろん人間の行動が物理現象なのは否定いたしませんよ。ええ、しませんとも。突っ込んでも無駄です。
 それとこの場合、考慮されるべき事象が抜けております。つまりは相手に意志がない、感情がないことを前提にしなければ成り立たないということです。
 人間同士のコミュニケーションの場合、相手の意図と自分の意図とは複雑に絡み合いそれだけで感情が上下し、それを利用して交渉などが行われるのは周知の事実だと思います。
 ではそれにた対する主張がありますので引用してみます。
マナーや礼儀は「感情に自己責任が取れず、判断に迷う者に基準を与え、無用な争いを避ける為」に存在する。だから精神的に自律していない弱輩者ほど、周囲にルールを要求する。法律とは、その時代の多数派の都合のいいように決まるもの
 

詐欺の場合、騙そうとする側が積極的に誤解させようと(恐怖心を煽る/虚偽を示す等)するので、マインドコントロールを受けた側が「相手の言いなりにならずに自由意思で判断する」ことはあり得ない(あったら「騙された」と思わない)

従って積極的に誤解させようとした側に、騙した(誤解させた)原因と責任がある。詐欺でも痴漢でも虐めでも、行為の原因は常に行為者にある、ということ

 

恐喝の場合、恐怖により自由意思が制限されるので、被害者に金を払った原因も制限される

なお「どんな行為を受けたら自由意思が制限されたと感じるか」は、100%被害者側が決めること

 

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋

 はっきりいってもう意味が分からない。
 私は一応、彼の言う論理が過ちではないと検証したくてこの行動を始めた。思考することは人間の美徳であると私は思っているし、彼自身の固定観念をほぐしてあげたいという思いもあった。正直ここまで来ると目も当てられない。
 彼は行為と思考の線引きができていない。
 怒りがあれば即行動。悲しければ即泣く、相手を責める。などといったものが当たり前だと決め付けています。そうでなければ、彼は元々感情がないのでしょう。そうでなければ説明がつきません。
 
 次に逝って見ましょう。なんだか一周回ってハイになってきましたよ。

読者が触れ得た情報をどう読み取ってどう活用するかは、完全にその読者の勝手自由。例えそれが誰かに教わった考え方・見解であっても、読み手が他者に「強要」されることなく自由意思でそれを選んでいれば、その結果に対する責任は読み手自身にある

例えば貴方がある情報に接してどれほど憤りを覚えたとしても、それはあくまでも貴方の判断基準・尺度に照らして貴方自身が無意識的にせよ選んだ解釈の結果であって、その情報の発信者には「貴方の憤りに対する原因・責任」は全くない

ここで言う「強要」とは肉体に対して直接的物理的な実害が及ぶケースのみであり、暴言や誹謗中傷についても、騒音となるもの以外「強要」に当たらない。例えそれが脅迫文でも、恐怖心を抱く事自体は読み手の勝手な所為、自業自得ということ

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋

 つまり昨今問題になっているヘイトスピーチといわれるものには何の問題もないとのお立場のようです。あとここで初めて原因と責任という言葉がセットで出てきます。これ欲覚えておいていください。ここが初めてです。
 

つまり人は本来(ネットやTV鑑賞等に於いては絶対に)自分の感情を他人のせいにはできない。怒りの矛先を少なくとも自分以外の誰かに向けるのは、筋も間も勘も気も思いも場も見当も御門も違う。これに気付いていない人同士が互いに鏡となって矛盾を見せ合う行為・現象が「争い」である

従って貴方が誰かに嫌悪感を抱いても、その原因は常に「貴方の持つ固定観念・定義付け」であって「相手」ではない。逆に誰かが貴方に嫌悪感を抱いても、全く一切何ら断じて金輪際ちっとも全然まるっきし貴方のせいではない。「生意気だから」「ムカツクから」等といういじめやその報復の口実も、全く言い訳にならない

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋

 はい。いままでの議論は原因についてだったのにも関わらずここからいきなり責任に切り替わります。原因と責任はイコールではありません。一応皆さんはご存知だと思いますが責任とは

せき にん [0] 【責任】

自分引き受けて行わなければならない任務義務。 「 -を果たす」 「保護者としての-」
自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務償い。 「 -をとって辞職する」 「だれの-でもない」 「 -の所在」 「 -転嫁
〘法〙 法律上不利益または制裁を負わされること。狭義では,違法な行為をした者に対す法的制裁民事責任刑事責任とがある。
Weblio辞書より引用
となります。
 ここですり替えが行われている理由は簡単でしょう。彼が否定したいのは暴力的行為やそれを肯定する感情(憎悪や憤怒など)であって、実はどこに原因があるかなんて関係ないからです。そして、今まで原因で論じてきた性で彼の論理はここでも更なる破綻を見せます。
 先にも述べましたが、原因というのはその事象にかかる双方にあります。
 ですが、行為の責任となってくると話は全然変わってきます。感情の変化の理由はさておき、その結果相手を殴り倒すのは犯罪です。行為と感情はイコールではありませんし、感情に責任などあるはずがありません。そこに関してはこの方の論を支持します。
 ただ勘違いしないでください。私が支持するのはそこだけです。それ以外に支持すべきことはこの論の中に何一つとしてありません。誤解なきよう。
 
だんだんあほらしくなってきましたが、まだまだ続きます。

そもそも何を見てどんな印象を抱きどう感じるかは個人の自由。もし貴方がその自由に制限を与えようと(例えば相手に自分の理想を押しつけようと)すれば、その瞬間に貴方も不自由(苛立ちなど)を感じる羽目になる(人を裁けば自らが裁かれる)

これが「貴方が与えたものを貴方が受け取る」という、この宇宙の仕組み(仏教で言う因果応報、物理学で言う作用反作用)

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋

 すごいです。終に仏教哲学用語と物理学用語が隣り合っています。
 因果応報と作用反作用が同義だったとはとんと知りませんでした。作用反作用ではなくバタフライエフェクトが適当ではないかと、老婆心ながら指摘しておきたいと思います。
 

逆に言えば、仮に貴方が意図せずに誰かを怒らせたり悲しませても、相手が自前の了見・価値基準で勝手に感じている事なので、貴方が後悔や自責の念を感じる必要は一切ない

相手が幾ら貴方に罪悪感や劣等感を感じるよう仕向けたとしても上述のように御門違いなので、何ら貴方が自己嫌悪に苛まれるべき理由にならない(これは無論、迷惑を掛けたり失敗しても反省や訂正や改善をしなくて良いという事ではない)

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋

 
 感じる必要は一切にないと断じておられますが大丈夫でしょうか?
 これは何のための説明なのでしょうか。全文で同じようなことを説明しているのにここに来て再度説明する意図が見えませんし、何より論点がずれているのでまったくの無意味です。
 

無論、感情自己責任とはいえそれを表現すべきではないという事では決してない。感情は自己表現の一つであり自他共に己を知らしむチャンスなので、寧ろ積極的に感じたままを間を置かずに表現すべき

実際、感情を抑圧する者ほどそれを爆発させやすく、感情の自己責任が取れていない者ほど他者の表現の自由を制限したがる(自分が傷付かなくて済むように)

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋

 教祖様のありがたいお言葉ありがとうございます。
 自他共に己を知らしむ、すばらしいことです。ですが、其れは本当に感じたままをただ垂れ流すだけでいいのでしょうか。
 ここで私が彼とやり取りしたツイートを引用したいと思います。

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 著者本人が感想を垂れ流した私に対して何故誤解したのかと問うている謎の状況です。彼は私が自分の著した感情自己責任論の感想に対して否定をしてきましたし、私は彼を否定したつもりはありませんし、攻撃したつもりもありません。誤解を彼の性にした覚えもないのですが、何故彼は私に自戒を求めるツイートをしてきたのでしょうか。
自称知識人の多くは自覚がないが、「何かを批判・非難する」ということはその対象に関して中途半端な知識しか持っていない証拠(無知の無知)。これが、批判・非難が一時的表面的解決にしかならず、実態は益々隠蔽され問題が長期化する所以
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋
 最早なにが言いたいのか意味不明です。論旨が熟れてぐずぐずに崩れてしまったようです。先ほど暴力以外の暴言などは受け取る側の責任だから好きにやれば言いという発言と矛盾します。あと、批判と非難はまったくの別物でありますのでこの点も矛盾点です。

感情に限らず人生で体験する全て(外界)は「体験者がどんな固定観念を持っているか(内界)」を映し出す“鏡”に過ぎない。従って感情的な批判や非難は全て自己矛盾する

例えば、極悪非道な犯罪者に対して「あんな思いやりのない人間がいるなんて信じられない」などと責め立てる人ほど、その罪人の立場を思いやれていないように

何かと差別問題化したがる偽善者の心の中にこそ根深い差別心があるのも同様。内部に矛盾がなければ外部に矛盾を見る事はできない

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋

 批判や非難っていつの間にダメだって話になったのでしょうか。
 仮に彼が意図せずに誰かを怒らせたり悲しませても、相手が自前の了見・価値基準で勝手に感じている事なので、貴方が後悔や自責の念を感じる必要は一切ないと仰っていたのはなんだったのでしょうか。

人は100%、当人が与えた定義付け通りを体験する。「人生は必ずしも思い通りにならない」と定義していれば、正にその通りの(必ずしも思い通りにならない)体験をする

従って、繰り返したくない体験に出会ったら「どんな固定観念がこの体験を見せているのか」「その固定観念は執着に値するのか」と考えてみると良い。原因となっている観念を変えれば、似たような体験をしなくなる(変えなければ似たような体験を繰り返す)

「体験が先で観念が後、という観念」も含めて、常に「観念が先で体験が後」。常に本人の現時点の固定観念が、過去や環境を定義している

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋

 さて、ここで疑問点が。観念とは自身の中にあるものと定義されております。またそれは実際にそうだと私も思います。ですがそれがいつからあるのか証明できなければ、体験の後に観念があるのか、観念の後に体験があるのかは論ずることができません。情報が不足しすぎております。もしどこかにデータがあるのであれば教えていただきたい。
個々人のみならず集団・社会においても観念は具現化する。グループ全体が抱いている観念はそのグループ内で起こる出来事となって現れる。例えば貧困は人々の中にある「飢餓への恐怖」、犯罪は「自己存在の喪失に対する恐怖」が顕在化したもの
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋
 観念の具現化ですか。自己存在の喪失に対する恐怖とは即ち死の恐怖ということでしょうか。何故死の恐怖が犯罪として顕在化するのでしょうか。私ではもう理解できない領域で話が急展開しています。

全ては必然であり、起こるべくして起こっている。偶然や奇跡、運不運、矛盾、不合理、理不尽、不条理などは、その現象・物事の因果や必然性を理解(説明)できない人が言い訳として用いる概念に過ぎない

同じように「闇」も存在しない。存在するのは「知覚能力の限界」。同様に「客観」も存在しない。存在するのは「共有された主観」

真実は「人の数だけ」ある。「真実は一つ」は、数ある真実の中の一つに過ぎない。だからいつの世も「唯一の真実」に拘る人だけが、争いを通して己の矛盾を体験する

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋

 ここで指摘すべきことはすべては必然という、運命論を唱えておられる点ですかね。物理学上で運命論は否定されております(ラプラスのあくまで検索していただけると幸いです)のでそこを把握されているかどうかが鍵になります。
以上は、どこかの馬の骨が短い生涯の間に知り得た狭い視野から捻り出した独断と偏見の賜物、即ち単なる個人的主観。真か否かを判断するのは貴方自身であり、いずれにせよ貴方は貴方が信じた通りを体験する
解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋
 はい。この文章には価値がないと自分で断言されていました。
 私のこれまでの時間は完全に無駄(この文章を理解するために費やしたという意味で)だったわけです。それで、先ほどこの感情自己責任論の中で主観は固定観念の一種だったと思うのですが、この論旨はそれからの脱却ではなかったのでしょうか。おそらく私が認識していない何かがここには在るのでしょう。
 この後、延々とこんな反論が在るでしょうが、そんなものは関係ないですと書かれています。そして最後の最後に凄まじい言葉を見つけました。ここで漸く彼の言いたいことが理解できました。

「感情自己責任論は矛盾している・間違っている」「読むとイライラする」

⇒往々にしてそれは「主張者の解釈した感情自己責任論」であって、上記されている「感情自己責任論」ではない。何であれ矛盾して見えるのはそれを主張する者が十分に対象を理解していないことが原因。イライラするのは今はまだ読む時期ではないということ。時間を置いて精神的に成熟してから読めば良い

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility  Theoryより抜粋 

 
 自身の書いたこれを肝に銘じてもらいたい。Twitter上でどれだけの人にどんなことを言われたか私は分かりませんが、彼は自分の書いたこの言葉に自分で反していることに気がついているでしょうか。

「いやいや、それだけでは情報の受け手は自分の価値観のどこをどう見直したら良いのか分からないではないか」

それは各人が体験を通して自分で見付けるべきことで、その為の「体験(感情)」

切磋琢磨しない者はいつまで経っても成長しない。結果、死ぬまで同じ事に怒り続ける

解釈の自由と責任・感情自己責任論/Emotions Self-Responsibility Theoryより抜粋

 最早狂気を感じます。
 私には理解できないと悟りました。
 私を納得させることができず、もっと感情自己責任論を熟読しろそこに分かりやすく書いてあると述べておられましたが、結果私は熟読しても理解できませんでしたので、議論も無意味と思いやり取りを打ち切りました。彼はそれを逃げたと仰っておられましたが、本来主張を証明するのは主張した側であるはずです。
 むしろ論理の前提作成が不十分であり、線引きが記入されておらず、唐突に言葉のすり替え、意味のすり替えが二転三転して行われているので、彼自身理解されていないのではないでしょうか。
 熟読すれば理解できるとのことでしたので熟読させていただきましたが、まったくの無駄な時間でした。すばらしい贅沢な時間をありがとうございます。これからも貴方の誰にも理解されない理論の進化を見届けさせていただきます。
 決して支持しているわけではないのであしからず。
 
以上、神凪恭一の無駄かもしれないけれど理解する努力をしてみる~感情自己責任論編~でした。